2017年3月28日火曜日

キリスト教によくある質問に関する個人的回答

ここ最近聖書を読んでいる。 そこで自分の聖書の理解から、キリスト教でよくある疑問について、自分なりの回答を書いてみたい。 

・神が何故罪を犯すことが可能なように人を作ったのか?

そもそも「罪」の定義はなんぞや?ということを考えると、新約聖書が書かれたギリシア語の罪という単語の意味:「的を外れる」が罪の定義だろうと思う。的、つまり神(そして神の教え)から外れる行為が罪となる。エデンの園で食べてはならないと言われた木になる果実を食べた。神の教えを外れることにより、罪がやって来た。   神から行ってはならないと定められたことも、人は自由意志により、従うことも選択可能であるし。従わないことも選択が可能になっている。


・神が完璧なら罪を犯さない人間を作らなかったのか?

神は完璧と考えられているので、当然可能だと思われる。それが証拠に神は昔、イエス様という罪のない完璧な人を作られているが、人は彼を十字架にかけて殺してしまった。


・神が完璧なら何故この世に悪が溢れているのか?

神はあらゆるものを作られ、それらを「良し」とした。なのでこの世には最初に良いもの(善なるもの)で溢れていたかと思う。しかし、自由意思により神から的を外れる行為が起き、悪が起きた。

神は最初にこの世を完璧なデザインにされたが、個々の自由意志は尊重された。個々の人々は神から外れた行為を行うことも選べたが、最初の頃は誰も神から外れてはいなかったので何の罪もなかった。罪もなかったので死もなかった。しかし、どこかのタイミングで人の心は神から外れ、この世に罪が入って来た。このように、悪を溢れさせたのは一人ひとりの選択の結果であり、神の意思ではない。むしろそれを見て心を痛めたのが神なので、救うための方法も準備もされたのであろう。


・神を信じない人が救われないって説は、それこそ救われないのでは?

神を信じていないなら当然神から外れているのだから、的はずれとなり、罪になる。罪になったら救われないのだから、特に問題はないような論理に思える。一方で神を信じているなら、そもそも的から外れない努力をし続けるのではなかろうか。よって福音を信じ、悔い改めにより救われるはずだ。 


・福音を信じない人が救われないって説は、それこそ救われないのでは?
福音を宣べ伝えられて、これを信じる者は永遠の命を得ると書いてあるので、福音を知らないで死んだ人は、とりあえず普通に死ぬだけなので何の問題もないかと。

ただ、ペテロの第一の手紙 4:6には「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」と書いてあり、死んだ人に対しても福音は宣べ伝えられているようである。

福音を聞いたことがない人は、イエス・キリストの伝える永遠の命の存在も知らないのであるから、本人にとってもそれが救いなのかどうか判断しようがないであろう。例えば仏教徒に永遠の命なんて話がやって来たとしても、永遠の命とはなんぞや?である。また日本では神道があるが、神道にしてみても永遠の命とはなんぞや?である。なので福音を知らずして死んだ日本人は救われないのか?という疑問だが、キリスト教の永遠の命という考え方やそれを手に入れたいという考えが、そもそも福音を知らずして持つことが不可能である以上、考えても仕方がない質問であるかに思える。

一方で、福音を読むなり聞くなりして知った上で、信じずに死んで救われなかったら困るというのであれば、信じれば良いし、そんなのは救いではないというのであれば、信じる必要はないかと。この選択をすることで、この結果になるという選択肢が与えられた状態で、自由意志に基づき選択をすれば良いだけだ。何か問題でもあるのだろうか?これは神との契約です。契約書を読みましょう。契約に従うなら契約を取り交わしましょう。嫌ならやめましょう。これだけだ。

保険の契約と一緒で、いざって時のために事前に契約しておくから役に立つ。契約に嘘があったり、内容に従わなかったりする場合には一方的に破棄されることもある。それが契約だろう。そんな契約が結べる機会があるという存在すら知らずに死んだ人が、死んだ後に契約に入っていれば、、、なんて後悔するか?当然するわけないし、そもそも出来ない。なので無問題だろう。 

とまあ、自分なりに聖書を読んだ結果として、キリスト教のよくある質問について考えた自分なりの回答を記載してみた。