死後の世界でよく使われた来た概念の一つとして天国と地獄ってのがあります。
良いことをすると天国に行き、悪いことすると地獄に行くという分かりやすいものです。天国に行くと極上の快楽が、地獄に行くと永遠の苦痛が待ってるそうですが、そもそも死んでから苦痛もしくは快楽を味わうことが出来るかどうかが個人的に疑問です。
痛み、もしくは快楽と言うのは神経に伝わった情報が脳によって処理されて初めて感じるものですが、死んでしまっては脳も神経もありはしないので、そもそも痛みも快楽も感じません。痛みや快楽を感じないのに苦痛や幸福感を味わえるのでしょうか?まず、無理でしょう。これじゃあ天国と地獄なんて死後の概念が、人に及ぼす影響はゼロになってしまうと思うんです。
ついで言うと、良い行いや悪い行いってやつも、主観によって支配されているので、これまた微妙な問題だと思うわけです。
例えば、順番待ちをしていて、誰か急いでいる人が来ました。かなり焦っているようなので、その人に順番を譲ったのですが、譲った本人は良くても、その後ろに控えていた人がそれによって余計な時間がかかります。余計な時間がかかった人は例えば恋人との約束の時間に遅れたりして、それが元で喧嘩をしカッとなって人殺しをしてしまいました。めでたしめでたし。なんてことになったら、良いことをしたつもりの人は悪いことをしたことになってしまいます。
こんな話はいくらでもあって、例えば先進国の人々が自分達が着なくなった服を発展途上国の人にチャリティーで送ったりするのですが、それが貧しい人に無料で配られるわけでなく、実は横流しされて安売り商品としてマーケットに出回ります。後進国では綿花を育て、それを使って服を作り商売をしようとする人々が大勢いるわけですが、それらの人々が作る服は、こうしたマーケットで横流し販売される服の値段に対抗出来ないのです。こうして、まじめな努力をしている人々は先進国の好意によって苦労を強いられています。
先進国の人々は良いことをしたつもりになっていますが、その一方で誰かが苦労をしているとしたら、これは良いことではありません。
また、貧しい国々では人々が良く旅行者に金銭を強請ってきます。物乞いが結構数街中にいて、それらの人々がお金を持っているであろう旅行者によって来るわけです。中には善意でそれらの人々にお金を渡す人々もいます。腕のない人とか足がない人とかを見て、可哀想だなと思ってお金を多めに恵んだりもするんですが、そういうのを見た人々が腕や足が無い方がお金を多く貰いやすいのか、ということに気づき、自分の子供の手や足を切り落として物乞いをさせたりする事例もあります。
まあ、そんなわけで良いことをしていると思っていることが、必ずしも良いことに繋がっているわけではないです。自分の頭の中では良いところで完結しているのでしょうけど、それがどんな結果を最終的に招いて行くのかは誰にも分からない部分が多いです。
こうした現実をふまえた上で、良いことをしたからとか、悪いことをしたからとか、どれだけ意味あるんですかね?と。
じゃあ、どうすれば良いのか?って話なんですが、自分が良ければなんだっていいんじゃないの?と思います。人間の意見なんて誰もが一貫していないわけですし、ブログなんて何年も書いていると、数年前の考え方は今にして思えばあり得ないな、と感じることもしばしばです。同じ人間ですら、時と共に経験を蓄え、違った考え方を日々形成して行くわけですから、世の中の人々の考え方も毎日移り変わっていることでしょう。
まあ、そんな世界で生きて行くのって、悩むだけ損かな。
2 件のコメント:
大多数の人は、死が怖いのではないでしょうか。自分が死ぬことも、他人の死に直面することもも恐れているから、その恐怖を紛らわせるために儀式やら宗教やらがあるのだと思います。
もし、死後の世界の存在を信じることが、今、生きている人の助けになるのなら、それはそれでよいことなのでしょうね。
良い悟りではないでしょうか。
結局、一つ一つの事象に目を向けるのではなく、全体を抽象化し俯瞰できたことが、間接的に社会に還元できる手段なのではないでしょうか。
それさえも主観に依る物かもしれません。
などと考えると堂々巡って眠れなくなりますので、適度が良いかと思います。。。
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