名前を与えることで理解することが出来るが、同時にそれは思考の停止を意味する場合もある。
老子のような話。
人は何か分からないものや現象に対して恐れを抱くものです。普段明るい挨拶をしてくれる人が、無口でやって来たら何かあると思います。そして心の中で身構えます。話を聞くと頭が痛くて、ぼーっとして、鼻水が止まらないといいます。ここで普通の人だったら、ああ風邪をひいたのかと思い心理的に理解出来たことによる安心を得ます。しかし、あなたが風邪という知識をもっていなかったらどう思うでしょうか?こんな現象はありえない。ひょっとしてこの人は死ぬのか?と思い、慌てふためくことしきりです。
別の事例を考えてみましょう。一昔前、結婚もしないのに子供がいるのは社会的に良い目では見られませんでした。なんかこう、人生の落伍者みたいな雰囲気もあったと思われます。ところが、若い人達の間で子供が出来たので結婚するという流れが生まれました。このような行動に「出来ちゃった婚」と名付けたのです。そして、出来ちゃった婚カップルなどがTVに数多く登場し、それは普通のことのように思えました。ところが「出来ちゃった婚」という言葉を使うなといわれると、結婚していない段階で子供を産んでしまった男女が、社会的立場を重視するが故に結婚に至った行動という説明に変わるわけです。「出来ちゃった婚」という響きからすると、可愛さのかけらもありません。「出来ちゃった婚」は響きが柔らかいし、内容も理解しやすい上、罪悪感を感じさせる要素が希薄であるといえるでしょう。とは言え、このことによって以前では問題とされていた行為が半ば社会的に軽く受け止められるようになってしまいました。「出来ちゃった婚」という言葉を誕生させずに、理解に苦しむ行動として留めておけば、世間の目も昔と変わらないことだったのでは?と考えてしまいます。
別の例をもう一つ。ある農村で多くの人が吐血して死ぬ病気にかかりました。死ぬ前に頭に突起物のような物が現れ、それが真っ黒になると吐血をして死ぬという症状だったのです。これを頭部突起型吐血症候群とでも名付けました。原因は未だ分かっていません。で、暫くたったある日、都会で同じ症状で病院に運ばれて来た患者がいました。それを見たお医者さんはインターネットで似たような症状を調べると、頭部突起型吐血症候群ということが分かりました。原因不明で、治療方法がないと書かれています。ここでお医者さんは「この病気はまだ原因が明らかになっておらず、治療方法も分からない。」と判断するでしょう。しかし、この病気が世の中にまだ無かったら?一体、どのような行動をとるでしょうか?何としてでも患者の命を救うためにありとあらゆることを試してみようと思うでしょう。もちろん、患者の許可をとってですが。ここでいいたいことは、ある症状に名前をつけてしまうと認識する上では非常に便利なのですが、思考がそこで停止してしまう恐れもあるということです。しかし、この名称による定義というのは逆説的には、今まで判明した事実を引継ぐというメリットもあります。つまり、東部突起型吐血症候群は原因不明だけど、頭の突起が黒くなったら死ぬぞってことは分かっているわけです。それをなんとかしてやろうかいな?と考えるきっかけを与えるかもしれませんし、これは原因不明の病気だから助からないかも知れませんと患者と自分を不幸のどん底に落とすことも出来ます。
こうして考えると、名前をつけるという定義付けの行為はある視点では今まで理解されている知識を全体へ伝えるのに非常に効率的な手段となるのですが、それを知ってしまうことにより、そこから先のことを考えるのをやめることにも繋がったりと悪い部分も同時に含んでいるのです。これには例えばAさんという人の噂も該当することでしょう。「Aさんは素晴らしいお金持ちで、今からスイス銀行のファンド運用マネージャーと今後の為替動向について話し合いにいくそうだよ」と聞かされた場合と「Aさんはとんでもないドケチで、凄い資産を持っているのに一度も飯を奢ってくれたこともないし、性格も酷いもんさ」と聞かされた場合では、あなたのAさんへの接し方はことなります。
これは誰かの知識をAという人の名前に結びつけたことにより、そういうもんだと頭の中で他人の目から見たフィルターを通しての情報を引継いでしまうからです。これは時に非常に厄介な存在です。予備知識0で知り合えば、あなた自身のAさんの人間像を構築することが出来たのに、それを事前情報によって歪曲される恐れを生じさせてしまったのですから。
まあ、そんなこんなで、我々の使うこの言葉や名前をつけるという文化は、便利さとともにどうしようもない程の不便さを持っているのです。
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