世間話をして過ごした前の晩が終わったのが今朝の4時だった。
最近は朝6:30に目覚める日が続いていたので、4時に布団に入ってもその時間に目が覚める。恋人が隣で寝ていて、邪魔すると不機嫌になる。誰だって邪魔をされたくない瞬間はある。ドミノを並べていたり、トランプでピラミッドを作っているときなどが特にそうだ。両者ともに集中力を要する作業で、人間は集中力をいずれの形にせよ阻害されることをいやがるのだ。寝るのに集中が必要だとは思わないけど。
恋人がそんな感じだし、昨日初対面になったばかりの女性にいたっては、わざわざ起こして相手をして貰うのにはあまりにも初対面から日が浅いので、一人で散歩に出かけることにした。
外はとても暑かった。昨日の電車の中で見た天気予報では、今日の気温は前日よりも4度上昇するようだ。たった一日で4度も気温が変化するなら、温暖化によって平均気温が1〜2度変わることに世界規模で騒ぐ理由が分からなくなる。しかし、政治家のような人々は何らかの姿勢を人々に示す必要があり、本来であれば政治家が何もしないでも住むような状態が理想と呼べるにも関わらず、人々もまた、何もしない政治家は無能だと思うのであった。そこに需要と供給が生まれ、今の供給は温暖化問題だった。それが本当に起こっているかどうかは関係ない。深夜番組でTVで何度も宣伝が繰り返えされる商品が、生活にあってもなくとも何の問題がないにも関
わらず、その短期的な問題解決の方法の一つとして提示されると、ついつい購入してしまうのと同じなのである。
そんなことをぐだぐだと考えていたわけではないのだが、あまりにも暑いので江戸時代の一里塚を目指して旅をした旅行者のように、次から次のコンビニを目指して体を冷やしながら進むのであった。これではまるで、本日中にお召し上がりください、とシールの貼られたケーキになった気分だ。彼らは自分では歩かないけれど。
目の前をベビーカーを押して歩いている女性が歩いている。タートルネックのノースリーブに、授乳に最適化されたような服を着ている。しかし、普通の人にはそれが授乳に最適化された服なのか、それとも単にそういうデザインの服なのかと言ったような考えは浮かんでこないと思う。自分の周りでそういう服を着る人が増え、そういう用途向けに作られたというコンセプトを理解し、知識として所有しているからこそ、あ、この人はベビーカーの赤ん坊を母乳で育てているんだな、と思うわけだが、服を見てそういう連想が湧いてくるのには、こうした経験の重なりがあるからである。それに気づいたときに、年をとると言うことはこういうものなのか?と疑問
に思った。
何かを見て、その背景に存在する様々な情報を認識できるようになる。それが強みなのか弱みなのかは一概には言えない。分かったつもりになって、本来であれば実現可能なものに対し、その可能性を否定するのは愚かであると言えるし、分かっていて失敗をするのも同時に愚かだからだ。ただ、全ての失敗は失敗ではなく、次により賢く始めるための学びだったと言い換えることも出来る。世の中には失敗など存在せず、そこには成功するか、学ぶかしかない。そう考えれば、失敗を恐れる感情は程度の差こそあれ、救われることになるだろう。
むしろ失敗を恐れて行動をしなくなっている人々の方が問題だ。子供がハイハイを覚え、立ち上がり、歩けるようになるまでは何度も失敗する。最初の失敗で『もうやめておきなさい。』と親が止めたりしたら、その子供は一生歩けないだろう。
多くの人は成功を夢見ている。しかし、積み重ねた経験が、何でも分かったような気にさせてしまう。ある人が成功の体験談を話しても、それを否定する人がいる。あの人だから出来たんだよ、とか、今は時代が変わったんだよ、とか。これは、誰かが自転車の乗り方を説明しているのを聞いて、それじゃあ乗れないよと否定するようなものだ。体験談はあくまでも上手くやるコツのような話で、それを聞いても自転車が乗れないことは言うまでもない。自転車を乗りこなすようになるためには何度も転ぶ必要があるし、乗り方についてあれはダメだ、これはダメだと語り続け、実際に転んでいない人は、いつまでたっても前に進めない。
こうして経験は、役に立つ情報にもなれば、可能性を潰す足枷にもなる。そして、あらゆる発言がこうした経験から生まれてくる以上、誰かが『それは出来ない。』と言うとき、それが本当に意味することは、出来ないという人には出来ない、ということだ。
そんな風に考えると、発言からその人の能力は判断される。しかしながらこれも、その発言をそのように解釈する経験を持った人の思考によるものとなる。良いか悪いかは別として。
非常に暑い日でも、木陰でのんびりしていると問題がある暑さには感じない。遠くからは野球の試合をしている声が聞こえ、そこにはカラスの鳴き声や、付近を散歩して通り過ぎていく人々の音もある。
目の前の池の先には松の剪定をしている人がいて、綺麗な日本庭園は、人の手によって整えられてこそ生まれているのだと言うことを理解する。自然の美を愛でているように感じてしまうが、それは実に人為的で、非自然な風景なのである。独特なバランスと、フェティシズムなコントロールに対する欲求が、芸術として進化した姿。スーパーモデルが着る以外に綺麗に見えない服がファッションの世界をリードするように、我々が美しいと感じるものは、日々の気の遠くなるような丹念な手入れによって作られている。
卓越した結果を残すには、それなりに苦労がついて回るのだろう。夏の暑さも、それを我慢することで、ある種の芸術の域に達する糧となる要素があるとすれば、それは耐える励みになることだろう。問題は、それがなんであるかを分かるための経験が、自分にはまだ無いことなのだが。
2 件のコメント:
思慮深い内容にいたく感嘆しました。その内容にはほぼ同感です。
多くの人は何事にも(物事、他人、自分、など)否定する。否定しながら代替案は示してはくれない。。。思慮がないから人の言葉や行動に反対するくらいしか自分の存在を見出せなくなっているように思います。だから、ベビーカーを押す人を見ても何の連想もなく存在すら感じない上に、歩道が狭くてぬかせないときなどは邪魔とさえ感じるようです。
思慮がないとは恐ろしいことです。。。
知識があっても思慮がなければ、知識はただの雑学に過ぎません。
dkcさん、暑い夏の清涼をありがとうございます。
bitさん
始めまして。コメントありがとうございます。
時間つぶしに書いた記事がお役に立ててなによりです。
今後も更新を続けて行きますので、また何か喜ばれる記事が生れれば、と思っております。
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